サンフランシスコ旅行 -ゴールドラッシュを経て発展した街-

旅行

こんにちは!旅人会計士のタローです。

夏季休暇を利用してカリフォルニアへ旅行しました。

サンフランシスコに行くのは学生の頃以来、10年ぶりです。当時は英語の勉強をしに来たにも関わらず、日本人と連んで遊んでしまい肝心の語学力は全く改善しませんでした。そのため現地の方とのコミュニケーションもままならず、将来海外で働くという夢とのギャップを強く感じました。

10年間辛い英語の勉強をして、今回は現地で様々な話が聞けたり、ある程度海外での生活をコントロールできるようになってきたので充実した時間にすることができました。旅行で出会った人たちと多くのコミュニケーションを取れるように今後も自己研鑽を続けていきたいです。

(サンフランシスコのケーブルカーと坂道)

食事と観光

サンフランシスコの食事はアメリカの他の都市と比較してピカイチでした。特にシーフードや中華は本当に美味しかったです。

事前にチョッピーノというトマトベースのシーフードスープがおすすめで多くのイタリアンやシーフードのレストランで提供していると聞いていたので早速、初日の夕方から行ってみました。

・おすすめのレストラン、カフェ

「Sotto Mare」イタリアンレストラン

Italian Seafood | Sotto Mare Restaurant | San Francisco
San Franciscos' Best Italian Seafood Restaurant

港まで通じる大通りであるColumbus Ave沿いのイタリアンレストランが多くあるWashington Squareから徒歩2分くらいの位置にあります。Fisherman’s Wharfからは上り坂で徒歩15分くらいあるので結構、良い運動になる距離です。土曜の夕方ということもあり、店に着くと1時間待ちということでしたが、クレジットカードと引き換えにアラームがもらえるので待ち時間の間は自由に近くを散策できます。連日行列のできる人気店だそうなので時間に余裕を持って早めに行かれると良いかと思います。待っている間に「City Lights Booksellers & Publishers」という本屋や「Lola Card Stop」という小物や土産物を扱う店が近くにあったのでそこで時間を潰しました。特に「Lola Card Stop」は店員の方が年配の女性の方でしたがとても感じ良く話しかけてくれて、おしゃべりをしている間に時間がすぐに過ぎていきました。

さて、ちょうど1時間後に待ち焦がれた「Sotto Mare」に入れました。注文すると巨大なボールに入ったチョッピーノが運ばれてきました。西海岸で取れるダンジネスクラブを中心に、エビ、イカ、ムール貝、アサリなどの魚介類が惜しげもなく入っているので出汁が本当に美味しいです。中にパスタも入っているので2人でシェアしても満足できる量です。パンも美味しかったので頼んだらおかわりももらえました。店の中はそこまで広い訳ではないですが、犬を連れた地元の親子客など観光客だけでなく、地元民からも愛される店という雰囲気でした。外にもテラス席があるのですが、8月でも日がかげるとかなり冷えるので厚手のパーカーや薄手のダウンを着ている方が多いです。あまりの満足度の高さに翌日も「Sotto Mare」に行きましたが、この時はクラムチャウダー、タコサラダ、干し鱈(Baccala)をテイク・アウトしてホテルで食べました。テイク・アウトだと待ち時間も15分程度でチップ不要なのでおすすめです。店員さんは感じの良いイタリア人の方が多いですが、大繁盛店なので誰もが忙しく働き回っていました。サンフランシスコに再訪した際には絶対にまた行きたい店です!

「City View Restaurant」中華料理(飲茶中心)

HOME | City View Restaurant

こちらもサンフランシスコで超人気の中華を日曜のランチタイムに訪れたので30分くらい待ちました。名前を伝えて順番が来ると呼んでもらえるので近くのベンチに座っていれば大丈夫です。サンフランシスコのチャイナタウンは北米最古で最大規模を誇っており、その中でも人気な中華レストランだったのでここもかなりハイクオリティでした。北京ダックは薄皮に挟む上品なタイプとは異なり、厚めのバンズ(Buns)に挟んだものでしたが、肉もジューシーだったので相性が良かったです。他にも大根もちやスペアリブなども味付けが上品で美味しかっったです。さすが本格中華という印象でした。

「Four Barrel Coffee」カフェ

Four Barrel Coffee
Independently sourcing, roasting, and brewing the best coffee in San Francisco.

サンフランシスコで有名なサードウェーブの本格コーヒー店としては、「Blue Bottle Coffee」、「Ritual Coffee Roasters」、「Sightglass Coffee」とこの「Four Barrel Coffee」が有名と聞いていましたが、迷った末にここに行きました。店の奥では焙煎作業を職人の方が実施している所が間近で見られるので迫力がありますし、常にコーヒーの良い香りが漂ってきました。店内は広くて多くの方がおしゃべりを楽しんだり、学生が勉強したりしていました。この日のコーヒーはエチオピア産でしたが、こうばしい香りが際立ちつつバランスが良くて飲みやすい好きなタイプのコーヒーでした。美味しいコーヒーを飲みながらカフェで過ごすとあっという間に時間が経ってしまいますよね。

上記のサードウェーブコーヒー店に関しては、本当は全部行きたかったのですが、今回は時間が足りませんでした。。。また、サンフランシスコに来た際の楽しみに取っておきたいと思います。

・おすすめのスポット

「ヨセミテ国立公園」

サンフランシスコから車で4時間ほど東の内陸部に位置するヨセミテ国立公園もサンフランシスコと併せて訪問する方の多い人気の場所です。気候的にはサンフランシスコがカリフォルニア海流の影響で涼しいのに対して、ヨセミテは内陸にあるので8月はカリフォルニアらしい暑さでした。気温はそれなりに高くなりますが、空気は澄み切っているので朝晩はとても心地よく過ごせるのでバーベキューをしたり、バルコニー付きのホテルに宿泊して外で食事をするには最高です!サンフランシスコからの道中などでDeliを調達して持っていくと便利でした。園内にもそれなりのグローサリーがあるのでパンや肉、野菜などは購入可能です。ヨセミテも10年ぶりの訪問でしたが、野生の鹿の親子や熊が出迎えてくれました。熊は流石に驚きました笑。写真だと見にくいですが、200mくらいの距離にいる大きめの動物を眺める人垣ができていたので、近くのレンジャーの方に聞いたらBlack Bearだそうです。自然が豊かですね。

Black Bear
鹿の親子

「Pier 39」

埠頭の一つが観光地化されていて、レストランやカフェ、土産物屋などが集まっており、メリーゴーランドもあります。ザ・アメリカの観光地という雰囲気です笑。目玉としては野生のアシカの大群が目の前に見えるスポットがある点です。野生のアシカ同士でじゃれあったり、喧嘩したりという姿が見られるという経験は初めてだったので見ていて飽きなかったです。あと予想外に妻が喜んでました笑。動物好きの方は良いかと思います。

Pier39で見られる野生のアシカの群れ

ゴールドラッシュまでのサンフランシスコ

まずサンフランシスコがアメリカの領土となるまでの経緯です。

当時、メキシコはスペインから1812年に独立したばかりでしたが、長期にわたる独立戦争のせいでメキシコには北部領土(今のテキサスやカリフォルニアなど)を上手く統治する力は残っていませんでした。一方でアメリカは1803年のルイジアナ買収や1814年の米英戦争終結を経て、西部開拓に集中していきたいという時期でした。そのような時期である1836年に多くのアメリカ人不法移民に占拠される形でテキサス共和国がメキシコから独立したのちにアメリカへ併合されました。

これに対して怒ったメキシコとの間で国境の確定をめぐり、米墨戦争が始まります。この戦争の結果、メキシコは国土の3分の1を割譲し、アメリカはカリフォルニア、ユタ、ネバダ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの権利をテキサスと同様に手に入れました。

こうして見るとアメリカが今の領土を手に入れる以前はまだ、ヨーロッパ諸国による植民地支配が行われていた北米大陸で、イギリスとの独立戦争、米英戦争などを経て、大国になるまでの過程は他のアフリカやアジアの国と比較して手際の良さが際立っています。その善悪の評価はもちろんありますが、この勢いが第二次世界大戦を経た今でも覇権国家であり続けるパワーの原点なのかもしれません。

米墨戦争の結果、サンフランシスコもアメリカの一部となりましたが、1847年に戦争が終結した際のサンフランシスコは港として絶好の立地ではあったものの、まだ片田舎で人口も数百人だったと言います。それが1848年に金が発見されると一挙に十万人以上の人がカリフォルニアに押し寄せました。ゴールドラッシュ初期に移住した人たちが1849年に多かったことから49ersと呼ばれており、NFLチーム名の由来となっています。

アメリカ国内からカリフォルニアへは①パナマ地峡を含む海路での移動、②カリフォルニアトレイルを含む陸路での移動、③南米のホーン岬を回る海路での移動、のいずれかを選択する人が大半でしたが、当時は大陸横断鉄道もなかったためにいずれも困難を伴うものでした。

まず、①パナマ地峡を含む海路は最も困難が少ないように思われるルートでしたが、当時はパナマ運河はもちろん、陸路でパナマを横断するための鉄道も無かったためジャングルを1週間かけて進む過酷な道のりで黄熱病やマラリアなどの危険がありました。

次に②の陸路は難所を多く含むカリフォルニアトレイルがメインで、こちらも困難な道のりでした。コレラが蔓延する沼地周辺や酷暑の荒野、インディアンの襲撃、ロッキー山脈やシエラネバダ山脈などの厳しい道のりを主に牛やロバに荷車をひかせることで進みましたが、命を落とす移住者も多くいたそうです。ちなみにこの道のりの最後の関門であるカリフォルニア東部のシエラネバダ山脈の一部がヨセミテ国立公園になっています。ヨセミテの絶景である断崖絶壁の岩壁は、その後の大陸横断鉄道建設時も大きな障害として労働者に立ちはだかりました。

③の回路も半年以上に渡る長期の航海であり、こちらも多くの犠牲者を出しながらの移住でした。

いずれも険しい道のりを超えてカリフォルニアに辿り着いた移住者を中心にその後の大陸横断鉄道建設やウェルズ・ファーゴ、リーバイスなどの巨大企業が設立され、カリフォルニアは発展していきました。

ゴールドラッシュの時期にわずか数年の間でサンフランシスコだけでも人口が3万人まで増加し、1850年にカリフォルニアはアメリカ合衆国の31番目の州となりました。

(人口の推移)

San Francisco, California Population 2024

ゴールドラッシュ以降のサンフランシスコ

ゴールドラッシュにより人が集まり始めるとサンフランシスコの街としての発展が始まります。その領域は主に以下に区分できます。

  • 移民
  • 交通
  • 企業

移民

まず、①の移民に関してです。ゴールドラッシュはアメリカ人を中心に多くの移住者をカリフォルニアに引き寄せましたが、移住者の中にはヨーロッパからはフランス人、ドイツ人、イタリア人、イギリス人、アジア・オセアニアからは中国人、オーストラリア人、ニュージーランド人なども含まれていました。今でも中国人やイタリア人の多くがゴールドラッシュ直後に定住を許可された地区がチャイナタウンやリトルイタリーとしてそれぞれ名残を残しています。特にアヘン戦争直後の中国人の方は数万人単位でカリフォルニアに移住し、その後の大陸横断鉄道建設時の重要な労働者の役割を担いますが、苦力としての辛い歴史を持っているという側面もあります。

サンフランシスコの多様性の高さとオープンなマインドはこの辺りにもルーツがあるのかもしれません。余談ですが、サンフランシスコでは陽気なおじさんからよく「This is San Francisco, open your mind!」と言って絡まれることがあります笑。ニューヨークではそんな陽気なおじさんはいないですし、中西部の街を旅行してもこんな絡まれ方をした経験はないです。この陽気さは気候のせいなのかなと最初は考えていましたが、金という夢とロマンを求めて世界中から多くの人が集まった街という過去の方がよりサンフランシスコの雰囲気に合っている気がします。

今でもサンフランシスコの人口はアジア人が3割を占めており、その内の半分以上が中国人の方です。白人の割合が5割程度なのでアジア人の比率と比べても大きくは乖離しないというのが現状です。

交通

次に②の交通に関してはパナマ地峡鉄道およびパナマ運河と大陸横断鉄道があります。

パナマ地峡はアメリカやメキシコよりも随分と南、南米のコロンビアの北に位置する中央アメリカに属する国パナマのちょうど、真ん中あたりを指します。今ではパナマ運河があることで有名ですよね。ここを通らないと大西洋から太平洋へ行くために南米の南を大回りする必要があるのでゴールドラッシュの頃では半年近く余計に航海が必要となってしまいます。そのため、ゴールドラッシュでアメリカの西部開拓が進み、アメリカ太平洋沿岸でも人口が増加して物資の需要が増えるとパナマ地峡経由での輸送の必要性が高まります。

上述のように鉄道建設以前はジャングルの中を1週間ほどかけて移動する必要があったため伝染病の危険がありましたが、アメリカ人の事業支援を受けてパナマ地峡鉄道が開通すると大西洋沿岸から太平洋沿岸への海上輸送の利便性が大きく向上します。その結果、アメリカは海洋国家としての地位を向上させていきました。また、パナマ運河に関しては難工事であったもののアメリカ合衆国によって建設が進められ、1914年の第一次世界大戦と同じ年に完成を迎えます。その後、アメリカの太平洋進出と衝突する形で日本との太平洋戦争が始まってしまいますが、戦争時においてもパナマ運河はチョークポイントとしてアメリカの海上輸送における戦略的重要地でした。そのため日本軍がパナマ運河を攻撃対象の候補地に挙げられたこともありました。また第二次世界大戦後は冷戦下における対ソ連の文脈で軍事的、経済的な位置づけが重視されていたため引き続き米国の監視下に置かれる期間が長くありましたが、冷戦終結後はアメリカのヨーロッパに対する脅威が低下し、パナマ運河の戦略的重要性も低くなります。その結果、パナマ侵攻後のパナマ内政の安定化を経て1999年にパナマ運河はパナマに返還されました。

今では米軍の主なターゲットは中国であるはずなので既に太平洋沿岸に戦力を集中させているはずで、パナマ運河のルートが軍事的に重要なものとなる機会は相対的に少ないと推測できます。

一方の大陸横断鉄道は、1862年に当時のリンカーン大統領によって署名された太平洋鉄道法成立後に法人化されたユニオン・パシフィック鉄道およびセントラル・パシフィック鉄道の2社によって建設が進められます。東はオマハからユニオン・パシフィック鉄道が担当し、西はサクラメントからセントラル・パシフィック鉄道が担当しました。セントラル・パシフィック鉄道への主要な投資家(ビッグ4と呼ばれた)の一人にリーランド・スタンフォード氏がいましたが、彼はゴールドラッシュの時期にニューヨークからカリフォルニアへ移住し、商人として成功を収めました。また、鉄道敷設期にはカリフォルニア州知事も務め、後に有名なスタンフォード大学を設立しました。

Encyclopædia Britannica, Inc.

この建設においては多くの中国人労働者が苦力として参加し、過酷な作業を担いました。セントラル・パシフィックが担当するエリアにはカリフォルニア州のシエラネバダ山脈がありますが、地形的に難工事となりました。上述のヨセミテ国立公園はシエラネバダ山脈の一部なのですが、絶景を作り出す断崖絶壁の岩壁から、トンネル開通のための工事の大変さがよくわかります。中国人労働者は南北戦争の最中、鉄道工事にあたっての貴重な労働力として多くの割合を占めましたが、そのような状況に白人が不満を募らせた結果、後に排斥運動が起きてしまいます。今ではオープンマインドなカリフォルニアですが、歴史を辿るとそのような一面も見えてきます。

過酷な大陸横断鉄道の建設には10年ほどの期間を要しましたが、1869年にユタ州プロモントリーで西と東の線路がつながり、開通記念式典が行われました。セントラル・パシフィック鉄道はサザン・パシフィック鉄道を経てユニオン・パシフィック鉄道に吸収されますが、そのユニオン・パシフィック鉄道は何度かの倒産を経て、今でもダウ輸送株やS&P500に選ばれる優良企業として存続しています。

企業

最後の③に関しては今でもお馴染みの企業がゴールドラッシュをきっかけとしてビジネスを始めます。ユニオン・パシフィック鉄道がリーランド・スタンフォード氏とその仲間によって設立されたのは上述の通りです。

また、カリフォルニアを中心に全米で多くの支店を持つ銀行であるウェルズ・ファーゴもゴールドラッシュ期の1852年に設立され、カリフォルニアがゴールドラッシュと共に成長する中で事業を拡大させていきました。ちなみにウェルズ・ファーゴを設立したヘンリー・ウェルズ氏とウィリアム・ファーゴ氏はウェルズ・ファーゴの設立前にニューヨーク州でアメリカン・エキスプレスを設立し、運輸業をきっかけとして郵便為替などの金融業にも事業を拡大していきました。

さらに、ジーンズメーカーとしてお馴染みのリーバイスはリーバイ・ストラウス氏がゴールドラッシュ期の1852年にサンフランシスコへ移住して創業され、ギラデリ・チョコレートはイタリア人のドミンゴ・ギラデリ氏によって1852年にサンフランシスコで設立されました。

サンフランシスコの最近

上記で紹介した企業はいずれも全米屈指の大企業となり、リーバイスやギラデリ・チョコレートは今や世界中の人が知っているグローバル企業です。このように歴史を遡ると、サンフランシスコが金融センターとしての位置付けを今でも維持しているルーツがわかりますし、ゴールドラッシュが強固なビジネスの礎を築いたということが実感できます。

一方でサンフランシスコはその地理的な性質上、可住地面積が狭いことやプレートが沈み込む場所に当たるため地震が多いことが負の側面としてあります。1900年代には2度の大きな地震を経て街の再生を行なっており、当初は金融街として、最近ではIT都市としてハイテク産業を牽引する存在として復興を遂げました。

これには上述のスタンフォード大学などへ優秀な人材が集まった結果でもあります。また、サードウェーブコーヒーなど最新のトレンドが生まれる街としても魅力的です。このように文化的、産業的、学問的な観点から都市としての優位性があるといえ、それが世界中から人々を惹きつける要因となっているのだと思いました。

歴史を掘り下げてみて、改めて魅力的な街には多くの歴史があるということを実感しました。また是非、残りのサードウェーブコーヒー店巡りとチョッピーノを食べるためにサンフランシスコへ遊びに来たいと思います。

(参照)

「パナマ地峡鉄道とヤング・アメリカ運動」宗像俊輔著 2019年

「パナマ地峡秘史:夢と残虐の四百年」ディビッド・ハワース著 リブロポート1994年

「『大陸横断鉄道』計画とアメリカ合衆国憲法」宗像俊輔著 2017年

Wells fargo HP(https://www.wellsfargo.com/about/corporate/history/)

Levi strauss & Co. HP(https://www.levi.com/US/en_US/features/about-us)

地図と鉄道のブログ(https://homipage.cocolog-nifty.com/map/2017/09/i-9658.html)

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